32.  日本人と髭の白人男性の謎の写真  by 神谷良昌

(草の根通信108号、2021年9月掲載)

神谷良昌: 中浜万次郞国際協会

万次郞の第二の故郷となったアメリカのマサチューセッツ州フェアヘイブン。その隣町のニューベッドフォードは当時捕鯨業の拠点であり、ホイットフィールド船長と万次郞を乗せたジョン・ハウランド号の寄港地です。その町で「万次郞とホイットフィールド船長との写真」が見つかったというニュースが2016年に流れました。果たして万次郞がフェアヘイブンに滞在していた当時の姿なのか。その真相を『ジョン万次郞 琉球上陸の軌跡』(琉球新報社)著者の神谷良昌氏より寄稿いただきました。

発見された謎の写真
発見された謎の写真
謎の写真発見を伝える新聞記事
謎の写真発見を伝える新聞記事

2016年4月に国内の新聞に掲載された「日本人と髭の白人男性」が「万次郞とホイットフィールド船長」ではないかとツーショットの写真がニューベッドフォード図書館で発見された。その写真が謎の写真として扱われていた。私は現地に行けば何かわかるのではないかと思った。

 

2020年10月5日と6日の両日にフェアヘイブンで「第17回ジョン万次郞フェスティバル」が開催されることを私は知っていたので、2度目のマサチューセッツ州に単身で行くことにした。フェアヘイブン訪問は、2度目で27年振りにミリセント図書館のキャロライン館長に再会することもできた。ホイットフィールド船長の5代目ロバートさんとも懇談できたのも大きな収穫だった。

 

フェスティバルが終わり、フェアヘイブンの街をひとりで散策しながらフェアヘイブン観光センター・博物館を訪ねるとクリス館長が迎えてくれた。その時に謎のツーショットの写真も館内に展示されていたので館長に「この写真の人物は、万次郞とホイットフィールドですか」と質問してみた。偶然にも彼自身がその写真について研究しており、私の質問に対する答えは、「No, they are not」の明確な返事だった。残念ながらその日本人の名前をその場で資料もなく確認できずメールでやり取りすることになり名刺を交換した。

 

その後のメールで、クリス艦長が言うには、「日本人はニューヨークで新聞記者をしていた『中村嘉寿(なかむらかじゅ)』という人で、髭の白人男性は、ニューベッドフォードで当時捕鯨用モリ銃を製作していた『フランク・ブラウン』という人である。」ということが分かった。私は、早速、中村嘉寿について調べてみることにした。

 

フランク・ブラウン
フランク・ブラウン

中村嘉寿は、鹿児島県出身で万次郞がハワイから帰国のため琉球に向ったのが1850年だから、50年後の1900年にニューヨークの大学に入り、商科と大学院の両方に籍を置いて働きながら学んでいる。大学を卒業して修士号を得た後、『日米週報』の記者となってしばらくニューヨークに滞在していたことがわかった。そして、1912年に帰国し福徳銀行・輸出水産会社・内外水産会社専務取締役を務めた。1924年には、第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選、その後も第17回から第19回まで連続当選を果たした人物である。

 

クリス館長が言うのは、中村嘉寿は、ニューヨークに来て2年後の1902年にマサチューセッツ州ニューベッドフォードを訪問し、当時実力のあったヤング兄弟会社の社長に捕鯨船員になりたいと頼むが、「捕鯨船の水夫は、ごろつきやならず者が多いのでやめておけ。あなたのような教育をするものがやる仕事ではない」と言われ断られた。しかし、それでも捕鯨業を学びたくてフランク・ブラウンの製作所を訪ねて捕鯨用モリ銃の見習工として学ぶことになった。そのころ、フランク・ブラウンは、隣町のフェアヘイブンに住むホイットフィールド船長の息子であるマーセラス・ホイットフィールドを中村嘉寿に紹介してくれた。そこで初めて、中村嘉寿は、50年前にフェアヘイブンに住むホイットフィールド船長に愛された若い日本人の話を聞かされたのである。その少年の名前は、ジョン・マンと呼ばれ、当時は捕鯨船員の中で最高の男であったと賞賛されていたと言う。その後も、中村嘉寿は、万次郞の遭難した時の話から、捕鯨船員として世界の海を航海し、ゴールドラッシュ、そしてハワイから仲間と一緒に琉球に向った話を初めて聞き大いに万次郞の生き方に共感したと思われる。そして、その後もブラウン家族、ホイットフィールド家族とも親しくして連絡し交流を続けたのだ。

 

そこで、私は例の謎の写真は、時期的にいつごろ撮られた写真なのかとクリス館長に聞いてみた。彼はきっぱりとその写真は、「1905年にボストン近くのポーツマスで結んだ日露戦争の講和条約会議の新聞記事を中村嘉寿は書き終えると、その記事がボストン新聞とニューヨーク新聞に掲載された。その後でニューベッドフォードのフランク・ブラウンを訪ねた時に地元新聞記者によって写されたものだろう」と説明してくれた。中村嘉寿は、地元ですでに有名な新聞記者であったという前提がある。或いは、翌1906年にも中村嘉寿は、ニューベッドフォードとフェアヘイブンを訪ねている。そのどちらかで謎の写真は写されたとクリス館長とカール・シモンズは推測している。

 クリス館長は、地元ニューベッドフォード新聞とフェアヘイブンスターの地元紙に掲載された当時の新聞記事のコピーを私にメールで送ってくれた。同時にフランク・ブラウンが工作所で写されている写真も送ってくれた。謎の写真が写された場所がその工作所で写されたものだと証明するためである。私は、クリス館長のアメリカ側の資料と日本側の中村嘉寿の資料を照合することにした。中村嘉寿の自叙伝『世界の日本へ』に、嘉寿とフランク・ブラウンとの関係が時期的にも内容的にも共通し、二人の関係を新聞記事でも確認できたためクリス館長の推測と一致したので、謎の写真は中村嘉寿とフランク・ブラウンであると証明できたと思っている。

 

ところで、パールハーバー奇襲攻撃の前年1940年にホイットフィールド船長の4代目に当たるウィラードが母のマリー・ルイス、船長の孫娘アリー・オメイ嬢とともに来日した。その時は、万次郞の長男東一郎の妻である芳子夫人、3代目の清夫妻が一家を挙げて歓迎した。戦後、1976年に明らかになるが、ウィラードは、ルーズベルト大統領の親戚にあたり、事前に大統領から戦争回避のための特命を受けて来日した「平和使節団」であったという。7月8日には、中濱清夫妻主催の盛大な歓迎晩餐会が帝国ホテルで行われた。その晩餐会の目的は、日米両国の親善・平和を願い、緊張状態にあった日米関係を修復し、日米開戦を回避するためだったが、残念ながら翌年の1941年12月8日にパールハーバーにおいて日本軍の攻撃により太平洋戦争に突入した。結局は、「平和使節団」の戦争回避の最後の努力も水の泡となってしまった。

 

帝国ホテルでの晩餐会の集合写真が残っているが、前列中央に①グルー駐日大使夫妻、②その後ろに3代目の中濱清夫妻、清の左手側にホイットフィールド船長の4代目で③ウィラード・ホイットフィールド、そして、ウィラードの左手側に立っている男性がこれまで誰も気に留めててなかった人物。実は、今回の謎の写真を究明したお蔭でその人物こそが★中村嘉寿であることがわかったのである。日米交流の立役者として日本側の「平和使節団」の受入れを陰で支えていたのが中村嘉寿だったと思っても不思議ではない。そして、万次郞の国際人の生き方に共感した次の世代の若者であった。