(草の根通信99号、2019年7月掲載)
Yuka Yokohama: フィラデルフィア日米協会プログラムマネージャー
フィラデルフィアに、松風荘という日本建築がある事は、日本国内ではあまり知られていないかもしれません。しかし、松風荘の誕生には、近代日本の建築家・吉村順三、日系人家具作家のジョージ・ナカシマ、日本で活躍したアメリカ人建築家アントニン・レーモンドとデザイナーのノエミ・レーモンドの友情が深く関わっているのです。
松風荘は、1954年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で行われた、“The House in the Museum Garden"という、近代を象徴する建築を美術館の中庭に再現するという壮大な展覧会の一環として建てられました。松風荘は、日本の書院造りの建物と池泉庭園、特に滋賀県大津市にある園城寺の子院の一つ、光浄院をモデルに創られました。設計は吉村順三、施工は11代目伊藤平左衛門、庭師は佐野旦斎、襖絵は東山魁夷、と、近代日本を代表する建築家と職人によって、1953年、名古屋にある宮大工伊藤の工場で建てられました。一旦、解体され、建材から、日本庭園用の苔のついた岩に至るまで、全て梱包され、ニューヨークに輸送されました。書院造りは、江戸時代の日本建築真骨頂の一つであり、松風荘は、素材、人材、建築方法など、細部に至るまで日本一流の技術者の協力により、再創造されました。日本の伝統的な建築様式は、西洋の伝統そのものよりも現代の問題との関連性が高いと、多くの西洋の建築家によって長い間考えられてきました。特に、日本建築の簡素ながらも、多岐多様性があり、また、自然との調和を考慮した、伝統的な例として、松風荘はニューヨーク近代美術館で展示されたのでした。
1958年、MoMAでの展覧会終了後に、松風荘はフィラデルフィアのウエスト・フェアマウント・パークに移築されました。移築工事は吉村、伊藤、佐野の監修のもと行われ、佐野は、ウエスト・フェアマウント・パークの自然環境、地形、風土にあった日本庭園を新たにデザインしました。庭園は現在Journal ofJapanese Gardeningで北米第3位に入賞し、建物と共に、フィラデルフィアの歴史的ランドマークとして市に登録されています。
松風荘がMoMAで展示されるその約40年前、1919年にアントニンとノエミ・レーモンド夫妻は、旧帝国ホテル設計監理のため、フランク・ロイド・ライトと共に来日しました。1921年には東京に設計事務所を開設し、戦前・戦後、日本に永く滞在し多くの作品を手がけました。レーモンド建築事務所には、若く優秀な建築家が集まり、1930年代には東京藝術大学在学中の吉村順三、マサチューセッツ工科大学を卒業後間もないジョージ・ナカシマ、そして二人の友人、前川國男もレーモンドのもとで建築家としての第一歩を踏み出したのでした。
しかし、日米間の関係悪化に伴い、1938年、レーモンド夫妻はアメリカに一時帰国します。帰国先となったのが、フィラデルフィアの郊外にあるニューホープでした。夫婦はそこで、自宅兼建築事務所と農園をつくり、吉村は、レーモンド夫妻とニューホープで暮らしながら、1941年まで共にアメリカの建築設計の仕事に携わりました。一方、先にアメリカに戻り、シアトルで暮らしていた、ジョージ・ナカシマー家は、1942年、アイダホ州、ミニドカにある日系人強制収容所に収容されてしまいます。レーモンド夫妻は、一家の事情を聞き、1943年、ナカシマー家をレーモンド農園に避難させることに成功しました。その後、ジョージ・ナカシマは、自宅、スタジオ、そしてワークショップを、ニューホープのレーモンド農園の隣に建設したのでした。日米関係にとって最も困難な時代であっても、美学的哲学的気質を共有し、互いを相互に尊重し合い、生涯にわたる友情を築いたのでした。戦後、レーモンド夫妻は東京の建築事務所を再開し、吉村、ナカシマ、ノエミ、そしてアントニンの4人はその後も様々な建築プロジェクトでコラボレーションをしています。アントニン・レーモンドは、建築家としてまた、教育者として、「日本近代建築の父」と呼ばれています。
1954年の松風荘プロジェクトで、アントニン・レーモンドは特別委員会のメンバーで吉村を推蔦した一人であり、前川國男(レーモンドの東京オフィスの卒業生、吉村、ナカシマの友人)も建築顧問でした。ニューホープには現在でも、ナカシマー家とレーモンドー家の自宅と農園が隣接し、フィラデルフィアの松風荘と共に、地元はもとより、米国各地から、また日本からも建築ファンが見学や、研修などに訪れています。