27.  万次郞上陸之地記念碑の建立にあたって by 神谷良昌

(草の根通信94号、2018年3月掲載)

神谷 良昌: ジョン万次郞研究家、糸満市ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会理事

2018年2月18日沖縄県糸満市大渡海岸で「ジョン万次郞上陸記念碑建立お披露目会」が催されました。2月18日は167年前にジョン万次郎が上陸した旧暦1月3日、そして今年は明治維新から150年に当ります。その式典の様子とジョン万次郎と沖縄上陸の背景をジョン万次郎研究家の神谷良昌氏にご寄稿いただきました。

 

明治維新150周年のこの年に沖縄県糸満市において、ついに念願だったジョン万次郎上陸之地記念碑が建立されました。その万次郞像は、太平洋をバックに水平に指す右手は、生まれ故郷であり10年も沙汰なく帰りを待つ母の住む土佐を指しています。そして、左手には、2冊の本を抱えており、一冊がアメリカの民主主義が書かれた「ジョージ・ワシントン伝記」、残り一冊が「ボーディッチの航海書」で、後に万次郎が和訳してその後日本の航海術及び測量術のテキスト本として後世に役立った本であります。世界に開けた新しい日本の国づくりに貢献したいという使命感がみなぎり、どんな強い風が吹こうとも揺るがないほどにたくましく、一歩踏み込んで前に進もうとしています。

 

大渡海岸にたつ万次郞像
大渡海岸にたつ万次郞像

ジョン万次郎のこの立像を通して、幕末にあってアメリカから民主主義を伝えようとした土佐藩出身の男「ジョン万次郎」が琉球藩の摩文仁間切・大度海岸に志を持って上陸をした意味、その後の日本の歴史に与えた影響、これからの時代を生きていく私たちが何を学ぶべきか、何を次の世代に伝えていくのかと言うことを考える場所になってほしいと思っています。

 

さて、今回のお披露目式において県外から多くの来客者があり、「なぜ万次郎は、アメリカから帰国しようとするときに直接日本本土でもなく琉球を足掛かりにして故郷土佐に帰ろうとしたのか」という質問を受ける機会がありました。それは、私も以前から気になっていた謎の部分でした。私は、当時の万次郎にとって日本帰国に際してハワイのデーモン牧師が万次郎と関わる重要な人物だとわかってきたのでハワイにも足を運びました。デーモン牧師は、血気盛んなアメリカ捕鯨船員の相談役として、ハワイに送られたキリスト教の宣教師でした。船員同士のけんかを仲介したり、彼らの悩みを間いたり、アドバイスをしたりするのが主な役目だったようです。当時の太平洋で捕鯨漁に従事していたアメリカの捕鯨船だけで700隻を超え、船倉の鯨油樽が満杯になると太平洋の港と呼ばれたホノルル港で鯨油樽を降ろし、空っぽの樽に乗せ換え再び漁場に向かい捕鯨漁に励む、船倉の樽が再び一杯になるとホノルル港に戻る。捕鯨船は、太平洋でホノルル港と漁場を行き来し、これを3年から4年間繰り返してからアメリカのニューベッドフォード港に帰港するのが常でした。

 

当時のハワイは、捕鯨船からの鯨油の集積地でもありましたが、それ以外にそれぞれの捕鯨船が見て体験した外部情報の集積地でもあったことも見落としてはならない重要なことだと思っています。更に特筆すべきは、フィリピンや日本で起こった事件などをデーモン牧師が「THE FRIEND」の新聞紙に記事として掲載していたことです。その新聞は、ハワイだけでなくアメリカ本国にも送られ読まれていたようです。

 

万次郎が帰国のためハワイを出発する直前の1850年に、琉球についての情報がアメリカ商船マーリン号のウェルチ船長によってデーモン牧師に伝えられています。それは、幕末の琉球には、アヘン戦争後イギリスとフランスの船が頻繁に出入りしており、そこにアメリカの捕鯨船や商船も食料の補給や船の修理を理由に那覇の港に停泊することがありました。1850年8月にアメリカのウェルチ船長のマーリン号が、船腹をリーフに傷つけ那覇港内で修理をすることになり、それを修理している間にウェルチ船長が那覇の街中を散歩している時のことでした。偶然にイギリス人宣教師ベッテルハイムと出会い、船長は琉球について多くのことを知ることができました。そのひとつが薩摩藩と琉球との関係で薩摩からの定期船が琉球からの年貢を取り立てるために毎年 2月に薩摩を出港し、那覇港で荷物を乗せるとその年の6月に薩摩に戻るという情報でした。ウェルチ船長は、船の修理が終わるとアメリカ本国へ帰る途中にホノルル港に立ち寄ります。その時にデーモン牧師と会って、そのような琉球と薩摩の関係の話を情報として提供しました。

 

その頃は、日本本土にアメリカの捕鯨船員が上陸して長崎の牢獄で罪人扱いされたことがニュースとしてアメリカでも知られるようになっていた時代です。そのような社会情勢でしたからデーモン牧師は、本土上陸することは危険だと判断し勧めなかったのでしょう。しかし、琉球に日本の定期船が行き来しているこの情報は、安全性、確実性からして琉球をステップに日本上陸するのが最善の方法だと結論づけたと思われます。そして万次郎たちがホノルル港から琉球に向けて出発すると、デーモン牧師はすぐに「THE FRIEND」(ザ・フレンド)の新聞紙上でタイトルを「日本遠征」と題して大きな記事として取り上げています。そして、「万次郎は、琉球と薩摩の関係もすべて知った上で琉球に向かった」と書いているのです。

お披露目式の一場面
お披露目式の一場面

沖縄本島南端の大度海岸に1851年2月3日に無事に万次郎たちは上陸することができました。その情報通りに、琉球にしばらく滞在しながら薩摩船の出発するのを待ち、遂に7月に薩摩へ向かうことになりました。デーモン牧師のシナリオ通りに万次郎たちは故郷・日本に帰国できたのです。

 

琉球を足掛かりに世界に開けた日本にすべく「ジョン万次郎」は無事に帰国を果たし、万次郎がアメリカで学んだ学問や技術はその後の日本にとって重要なものばかりでした。それを惜しげもなく日本の建国に尽力し活躍したのが後の「中濱万次郎」という当時の日本が最も必要とした男になります。