26.  シアトルの日系人とパナマホテル by 轟木ひろ子

(草の根通信94号、2018年3月掲載)

轟木ひろ子: 前CIE事務局長

シアトルの一番の観光名所は、なんといってもパイク・プレイス・マーケット。新鮮な魚介類、野菜、手工芸品、お土産、そして美味しいレストランと、時間を忘れて歩き回れる楽しい場所です。入ってすぐの鮮魚店は、鮭が売れると店員どうしで勢いよくその鮭を丸ごと投げることで有名で、その様子を写真に納めようとじっと待つ客もいます。小さなスターバックス一号店の前は、いまやアジア各国からの観光客で溢れています。

 

それほど有名なパイク・プレイス・マーケットですが、1942年までここに多くの日系アメリカ人が店を出していたことを知る人はほとんどいないようです。それでも、マーケットの奥に入っていくと、次のようなメッセージが掲げられているのを見ることができます。

 

パイク・プレイス・マーケット内のメッセージボード(左)と、戦前の日系人の農家の絵画
パイク・プレイス・マーケット内のメッセージボード(左)と、戦前の日系人の農家の絵画

「In 1941 approximately two-thirds of the farmers' stalls in the Pike Place Market were occupied by Japanese Americans. Today none. (1941年、パイク・プレイス・マーケットの約3分の2の露店は日系アメリカ人のものだった。しかし、今はひとつもない)」

 

「The United States Executive Order 9066 forever changed the Pike Place Market and the lives and families of 120,000 people of the United States of America.(大統領令9066号は、パイク・プレイス・マーケットと、12万もの米国市民の人生と

家族とを永遠に変えてしまった)」

 

そう、第二次世界大戦中、シアトルの日系人もまた、他の西海岸の日系人と同様、1942年2月のルーズベルト大統領令9066号により、米国内陸部の収容所に送られたのでした。米国全体では、収容された日系人の数は12万人と言われています。彼らは長年かけて築いた財産をたった数日間で、しかも二束三文で処分せざるを得ず、所持品として許されたのはスーツケース2つ分の身の回りのものだけでした。シアトルの日系人の多くは、米国国籍を持つアメリカ人でありながら、アイダホ州の荒涼としたミニドカに送られました。

 

パイク・プレイス・マーケットからバスまたは地下鉄で約10分ほど南に下がると、今はインターナショナル・ディストリクトと呼ばれる地域があります。「インターナショナル」というよりは、むしろ中華街(チャイナタウン)と言った方がぴったりくるような街の風情ですが、ベトナムやカンボジアの料理店もあり、流行の最先端を行くダウンタウンとはまったく異なるアジアのイメージです。実はここは大統領令が発令される前は「日本町(ジャパンタウン)」と呼ばれていた地域でした。当時は、日本館劇場、越智写真館、鳴門湯など、漢字の看板がたくさん立っていたそうです。永井荷風は「あめりか物語」で、「目につく看板は日本語ばかりで、寿司、豆腐、蕎麦、それに汁粉を売る店が軒を連ね、まるで日本の街にいるみたいだ」と伝えています。それほど栄えた日本町ですが、終戦後、ここに戻ってくる日系人はほとんどいませんでした。そこにあった財産 はすでに処分してしまっており、彼らがいなくなってからは、中国系など他のアメリカ人が違う町を形成していたからです。

 

それでも、今も神戸パークという公園は存在しています。そして、その通りを隔てた向かい側には、2006年に歴史的建造物に指定された「パナマホテル」が建っています。このホテルは、以前は日本からの移民やアラスカの漁師など、労働者達が利用していたホテルです。日系アメリカ人でワシントン大卒の建築家、サプロー・オザワ氏の設計で1910年に建てられました。地下には公衆浴場もありました。

 

 

戦前のパナマホテル
戦前のパナマホテル
戦前のパナマホテルの地下にあった共同風呂
戦前のパナマホテルの地下にあった共同風呂

1950年に閉鎖されてからは長い間忘れ去られていましたが、ここの地下には、日系人37家族が収容所に送られる直前、持ち物の一部、家族にとってあまりに大切で処分できないもの(ウェディングドレスや家族の写真など)を隠していました。

 

今年の日米草の根交流サミット大会に参加される方には、ぜひ「あの日、パナマホテルで」というジェイミー・フォード著の小説を読んでいただきたいと思います。1986年に、このパナマホテルの地下から、そうした日系人達の所持品が発見されたことから始まる小説で、1986年と1942年とを行きつ戻りつしながら話が進みます。フィクションですが、地理的・歴史的・文化的な背景はノンフィクションです。12歳の中国系アメリカ人の少年ヘンリーと、同級生の日系アメリカ人ケイコの初恋は、人種差別や文化の摩擦、そして大統領令という障壁に阻まれます。アメリカでは100万冊を超えるベストセラーとなったこの小説の原題は、「Hotel on the Corner of Bitter and Sweet(スイート通りとビター通りの角に建つホテル)」です。賑やかだった頃の日本町、ジャズクラブ、そして収容所の様子も、映画を見るかのように鮮やかに描かれています。シアトルのインターナショナル・ディストリクトの地固を広げながら読むと、あたかも自分もそこに入り込んだかのような感覚に襲われることでしょう。

ジェイミー・フォード著『あの日、パナマホテルで』
ジェイミー・フォード著『あの日、パナマホテルで』

パナマホテルは、今は営業を再開しています。改装されていますが、まだ当時の雰囲気を残しています。そして、1階はカフェになりました。著者ジェイミー・フォードの後書きによれば、お勧めのお茶はライチー・ブレンドです。カフェの一角には、日本町で使われていた日常品や新聞なども展示されています。壁には当時の写真も多数飾られています。また、奥の部屋からは地下の様子をガラス床越しに覗き込めるようになっており、1942年に残された品々を今も見ることができます。

左はホテルフロント、右は入口の階段
左はホテルフロント、右は入口の階段
左は客室、右はバスルーム
左は客室、右はバスルーム

エメラルド・シティと呼ばれ、経済発展を誇るシアトルですが、こうした苦い歴史を経験した街でもあります。シアトルを訪れる人の中には、インターナショナル・ディストリクトで飲茶を楽しみ、アジア食品を扱うスーパーマーケット「宇和島屋」でお買物をする人も多いと思いますが、ぜひもう一歩踏み込んで、パナマホテルを訪ねてみることもお勧めします。ヘンリーとケイコに会えるかもしれませんから。

 

※「あの日、パナマホテルで」ジェイミー・フォード著、前田一平訳、集英社