21.  ペリー・パンチとパンチ・ボウル by マシュー・C・ペリー

(草の根通信83号、2015年6月掲載)

マシュー・C・ペリー: ペリー提督子孫、生物学者

ペリー家で飲まれているお酒「ペリー・パンチ」のレシピは、200年前から当家に受け継がれてきたものだ。ペリー家やロードアイランドの住民の間で語り継がれてきた話によると、海軍代将オリバー・ハザード・ペリーの名誉を祝して1813年にロードアイランド州ブリストルで開かれた大規模なレセプションで初めてこのペリー・パンチが出されたそうである。

 

「1812年戦争(アメリカの第二次独立戦争とも呼ばれている)」中の1813年9月10日、エリー湖の湖上戦でオリバーはイギリス軍を破り全ての船隊を捕獲した。イギリス軍が一つの船隊全てを失ったのはこの時が初めてで、アメリカ史上でも最大の勝利として人々の記憶に残されている。この大勝利の知らせに歓喜したのが、オリバーの父クリストファー・ペリー大尉の友人で造船にも関わっていた富豪のジェームズ・デ・ウルフ氏であり、友人クリストファーと彼の息子オリバーの名誉を祝して1813年11月26日、ブリストル一番の高台マウントホープに建つデ・ウルフの館「ザ・マウント」で祝賀会を開催した。

 

オリバーの二人の弟、レイモンドとアレクサンダーもデ・ウルフ氏に貴賓として招かれ、レイモンドはこの祝賀会でデ・ウルフの娘マリアンヌと出会い、翌年二人は結ばれた。二人の結婚によって生まれたデ・ウルフ家とペリー家の深い絆を、デ・ウルフ氏も私を含む子孫たちも大変嬉しく感じている。後年1853年から54年にかけて日本との開国交渉で名を馳せたオリバーの弟マシューは、その時大西洋沿岸での職務のため祝賀会は欠席した。 

 

レイモンド・ペリーの玄孫アレクサンダー・ペリー・スコットによるペリー・パンチの材料は以下のとおり:

 

ペリー・パンチの材料
ペリー・パンチの材料

砂糖はレモンオイルで溶かし、そこにオレンジキュラソー、ラム酒、クラレットを加える。冷したシャンパンは飲む直前に氷と共に加える。上記の分量で4オンス(約118ml)カップ約100杯分となり、大変口当たりのいいパンチができあがる。甘くて飲みやすいがために、つい飲みすぎて酔いが回らないよう注意が必要だ。私が知る限り、このペリー・パンチは結婚式や洗礼式、葬儀等家族の特別な行事にしか出されていない。

 

ロードアイランドの住民の大多数は、かつてアメリカ海軍艦艇にロードアイランド(BB-17)と呼ばれた戦艦が存在していたことをおそらく知らないと思う(現にこの私も最近まで知らなかった)。ロードアイランドは1906年2月19日に初代艦長ペリー・ガースト大佐の指揮下就役した。15隻の戦艦と魚雷船部隊と合流し、「示威」を目的として世界巡航に送りだされ、海外の多くの港を訪れた。同艦隊は「グレート・ホワイト・フリート」と呼ばれ、出航前にルーズベルト大統領の観閲を受けている。

 

1907年、ロードアイランドの人々はこの戦艦に銀製のパンチボウルとコーヒーセットを贈った。値段およそ8,500ドルの銀食器セットはウィリアム・C・コッドマンのデザインによるもので、パンチボウルの表面にはロードアイランドの歴史と共に海軍の英雄4名と陸や海の産出物が彫られている。4人の英雄の名は海軍大将オリバー・ハザード・ペリー、海軍大将マシュー・カルブレイス・ペリー、エセク・ホプキンズ、アブラハム・ホイップル。その他、2羽のワシと2羽の七面鳥を始めトウモロコシやホンビノス貝、ロードアイランドの青リンゴなどが彫られている。

 

第1次世界大戦後1920年に、戦艦ロードアイランドは予備役となり、その後スクラップとして売却された。船が任務を解かれた後、銀食器はロードアイランドに返され、州議事堂のガラスの棚に収納展示されている。おそらく州の行事などに使われたこともなく、一般に公開されていただけである。今またこのパンチボウルをパーティーなどで使えたらどんなにか楽しいだろう。ただ問題は、パンチボウルにはそれ用のコップがついていなかったので、各自で紙コップを用意する必要があるようだ。 

 

もう一つ、全国的に注目を浴びているペリー家ゆかりのパンチボウルがある。それが「オーガスト・ベルモント・メモリアル・カップ」だ。この銀製の大型パンチボウルはベルモント・ステークスの優勝馬のオーナーに授与される。ベルモント・ステークスとはアメリカ競馬会のアメリカクラシック三冠の3冠目として行われる大変厳しい大会で、ケンタッキー州ルイビルのケンタッキー・ダービーとメリーランド州ボルチモアのプリークネス・ステークスの後に続いて開催される。19世紀有数の銀行家で競馬関係者であったオーガスト・ベルモント氏からこの名前がつけられた。ベルモント氏は1849年にマシュー・ペリーの娘キャロライン・ペリーと結婚し、息子のオーガスト・ベルモントJr.がその伝統を継承した。

 

ティファニー製のトロフィーは純銀のボウルで蓋が付いており、高さ18インチ、直径15インチ、台座の直径が14インチの大きさである。1869年から1926年まで、トロフィーはベルモント家のもとにあったが、1926年オーガスト・ベルモントJr.少佐の未亡人エレナ夫人によってウェストチェスター競馬会に寄贈され、以来永久的にベルモント・ステークスのトロフィーとして使用されるようになった。ウェストチェスター競馬会のジョン・J.コークリー氏が1926年6月8日、夫人に宛てた手紙に、

「ご希望に従い、いただいたトロフィーは今後オーガスト・ベルモント・メモリアル・カップと呼ばせて頂き、ベルモント・ステークスのトロフィーとして毎年授与されます。その年の勝者が翌年までの1年間カップを持ち続けることになります。」

と、書いている。