18.  万次郞と東一郎 その② by 塚本 宏

(草の根通信80号、2014年9月掲載)

塚本 宏: 医学博士、元日本保険医学会会長、ジョン万次郎・江東の会会員

【 東一郎一家と戦前の日米草の根外交 】

今回は、ジョン万次郞二代目の家父長として東一郎が戦前の日米外交に果たした貢献についてお話しましょう。

東一郎は官民にわたる幅広い交友関係を築いていました。その中の一人に、外交官の長老、石井菊次郎子爵(1866-1945)がいます。外務大臣経験者で駐米大使を務め、戦前きっての親米家でありながら、東京大空襲で亡くなった悲劇の外交官でもありました。

 

1917(大正6)年12月、石井駐米特命全権大使の送別晩餐会が日本俱楽部で催されました。かねてから昵懇の間柄だった東一郎は、その席で彼からホイットフィールド船長の旧恩に感謝して、船長の郷里に記念の贈物をされては如何かと勧奨されます。即座に快諾した東一郎は、国際ジャーナリスト、刀剣の鑑定家の佐藤顕理に相談した結果、サムライの魂であり「名誉を尊び、高潔な人格、道徳的勇気」を表す日本刀を贈呈品に決めました。

 

石井菊次郎子爵(駐米大使、外務大臣)
石井菊次郎子爵(駐米大使、外務大臣)

贈呈した日本刀は、五百年前の備前物『一文字助房』の名刀(ただし無銘)です。

翌1918年7月4日の独立記念日当日、フェアヘブンで挙行された贈呈式典には約1万人の市民が集まり、賑やかな「州祭」の様子だったと記録されています。マサチューセッツ州・クーリッジ副知事(のちの第30代大統領)が歓迎の辞を演説し、万次郞は「米国が送った最初の大使」であり、「ペリー提督が日本へ派遣された時、彼のおかげで友誼に満ちた歓迎を受けた」と万次郞に対して最大の賛辞を述べました。

 

石井大使も日本を代表して、贈呈演説をされ、「この太刀の寄贈者(東一郎)は、善良なる船長の遺徳の記念だけでなく、日本国民の好意の表象として保有されるよう希望する」と結んでいます。彼は、自分が万次郞の紀行を外交に利用して日米親善の一助にしようとした望みが達せられたことに満足しています(「外交随想」)。

 

プログラム掲載のクーリッジの演説文。黄色でハイライトされているのは「万次郞はアメリカが送った最初の大使」という部分
プログラム掲載のクーリッジの演説文。黄色でハイライトされているのは「万次郞はアメリカが送った最初の大使」という部分

つぎに、1924(大正13)年7月から、東一郎は約半年間、欧米の視察旅行に出かけます。ヨーロッパを廻った後、ニューヨーク経由、プロヴィデネンスのブラウン大学留学中の次男・清と落ち合って、フェアヘブンを訪問し、ホイットフィールド船長の2代目マーセエラス、3代目トーマス(当時、町の行政委員でした)らと両家の友情を深めます。亡き船長の墓参はもちろん、紡績会社見学、フェアヘブン町有志の歓迎昼食会、ニューベッドフォードのアシュレー市長邸訪問など2泊3日の過密なスエジュールを消化しました。

 

この時、地元新聞社のインターヴューに、東一郎は「フェアヘブンは第二の故郷です」と答えたのです。翌日、12歳の4代目ウィラードが自分の通うロジャー・スクールへ東一郎・清父子を招待し、全校を代表して、この言葉を誇りに思っている旨の歓迎の辞を述べて父子を喜ばせたのでした。ますます両家の絆が固く、深く結ばれた一コマでした。

 

さらに下って1932(昭和7)年、デーモン牧師の令息夫人から、かつて万次郞が咸臨丸の帰途、デーモン牧師に贈った日本刀の脇差(関兼房の作)が錆びているので修繕してほしい旨の依頼が飛び込んできます。これを知った東一郎は直ちに、この刀剣の研磨修繕を引き受けました。新見に実務を担当したのは、三女・小寺綾子でした。幸い、岐阜県関町長・加茂悦平ら刃物技術者の協力で見事に修繕できたのです。当時のグルー中日大使夫妻もこれをご覧になった上、これまた東一郎が「葵会」幹事だった縁で、徳川家建公爵揮毫の箱書までつけてハワイに戻されました。翌昭和8年3月には、日本とハワイの名士大勢が出席した「汎太平洋クラブ」の午餐会で、盛大にお披露目されたのでした。

 

同じ昭和8年7月のことですが、就任直後の第32代大統領ルーズベルトから突然、田園調布の東一郎あてに親書が舞い込みます。実は、その年の5月、石井特命全権大使(倫敦経済会議の日本代表)がホワイトハウスで大統領に会った際、万次郞のことが話し合われ、2代目・東一郎の消息が伝わったからです。大統領の祖父から万次郞の話を聞かされたこと、自分もフェアヘブンをたびたび訪問したことなど、個人的な日米友好の歴史的事実を尊重しようとする気持ちが伝わってくる手紙でした。もちろん、東一郎はアメリカ大使館にお礼訪問をし、大統領へも礼状を書いて、大統領とは細い糸で繋がっています。

 

いよいよ、先の大戦勃発間近の1940(昭和15)年になって、残念ながら東一郎の没後でしたが、成人した4代目ウィラードが母、大叔母と一緒に来日されます。東一郎夫人・芳子、清夫妻らは、一家を挙げて歓迎しました。雛人形の飾られた自宅に招いたり、帝国ホテルでの歓迎晩餐会を催したのでした。グルー駐日大使夫妻も出席されて百年も続いた両家の友情をたたえるスピーチをされました。

 

参加者全員の願いは一つ、日米両国の親善、平和でしたが、ささやかな草の根交流による最後の努力も虚しく水泡に帰したのでした。歴史に残る貴重な教訓ではないでしょうか。