(草の根通信75号、2013年6月掲載)
佐藤ヒデアキ: プロデューサー
万次郎の生涯を映画化できないか、そう考えた映画人達がいました。
壮大な夢のようでもありますが、すでに日米の一流の脚本家らにより脚本は完成しています。今回、異例なこととして映画化よりも早く、この脚本が出版されました。映画化と脚本出版に奔走されている映画プロデューサーの佐藤ヒデアキさんに寄稿いただきました。
【 万次郎の生涯の映画化は私のライフワーク 】
ジョン万次郎の映画企画は、私の長年の夢でした。
私は 70 年代後半に N.Y に数年滞在する機会があり、そこで体験した異人種、異文化の中での強烈な生活体験がこの企画の原点になっています。当時の N.Y はまだまだ日本人が少なく、覚えていったはずの英語も全く機能せず、まさに多人種が集う異国での生活の全てが手探りの連続でした。そんな暮らしの中で、ある日偶然手にした書物の中で出会ったのがジョン万次郎でした。
私が渡米する 100 年以上前に、万次郎は数奇な運命に導かれるように米国の地に降り立った。当然体験したであろう未知の世界での困惑の数々。ほんの少しの彼と私の類似体験が、彼の世界にのめり込むきっかけでした。与えられた環境の中でしか生きる術はなく、その中で “ 諦めること ” は死を意味したであろう状況の中で生き抜いた万次郎。海洋に関する先駆的な学問を学び、奇跡的に帰国を果たし、幕末の開国に重要な役割を果した彼の人生は、私にとって衝撃的なロマンでした。それ以来、彼の生涯の映画化は私のライフワークになりました。
当時、私のジョン万企画を知っていた知人を介して、脚本家の神波史男氏(当時 70 才)と出会った事がこの企画が微かに動き出すタイミングでした。神波氏は故深作欣二監督と組み、過去に「火宅の人」「華の乱」などの大作映画の脚本を書き、日本映画のトップに立った脚本家です。神波氏にこの映画の構想を相談した時に、脚本家としての創作意欲が刺激されたようで、「ヒデさん、一緒にやろうよ!」と脚本依頼を快く引き受けてくれました。
早々に旅支度をし、万次郎の足跡を求めてマサチューセッツ州プロビデンス空港に降り、レンタカーで数時間かけフェアヘブンに移動し脚本作りが始まりました。2004 年の 9 月の事です。途中から、この脚本に興味をもったハリウッド在住の映画プロデューサー・John Daly 氏(当時 69 才)が加わり完成させたのがこの脚本です。Daly 氏は「ラストエンペラー」「プラトーン」「サルバドル」など、3 度アカデミー賞受賞作品に関わった敏腕プロデューサーです。
脚本は米国での万次郎と船長の家族との絆をベースに構成され、完成度の高い脚本に仕上がりました。しかし、不運にもこの映画をプロデュースする予定だった Daly 氏が、2008 年に急に病死した事で企画の休止をやむなくされました。それ以来、映画は実現することなく今
日に至っています。しかも昨年の 3 月には、一緒に脚本作りをした神波氏も映画の撮影を目にすることなく病気で他界してしまいました。
生前、会うたびに “ 僕の目の黒いうちに何とかしてよ、ヒデちゃん ” と、はにかんだような表情で映画の実現を語りかけてくる神波氏の
顔が脳裏をよぎります。
本来、映画撮影前の脚本の出版はタブーです。しかし、あえてタブーに挑んでみました。脚本を読んだ読者に、1 人でも多く応援してもらえ
ればという想いからです。この映画のテーマは “ チャレンジ ” です。“ 最後まで諦めない心 ”、“ 未知の世界に挑んでいく好奇心 ” は、今の日本の若者に送りたい重要なメッセージです。日米関係の原点を語る上でも、今、最も日米に必要な映画だと確信しています。映画の実現に向け、亡くなった 2 人の想いと共に静かに再度動きはじめています。脚本の出版(リーブル出版)にあたって、土佐ジョン万会の皆様の御協力に深く感謝致します。
脚本「Manjiro & William ジョン万次郎の生涯」は定価 1000 円(税込)。
全国の有名書店、また、TSUTAYA や楽天などのオンライン書店などからお買い求めいただけます。