15. ジョン・ハウランド号の『航海日誌』世に出る [後編] by 川澄哲夫

(草の根通信74号、2013年3月掲載)

川澄哲夫:CIE評議員、文学博士・元慶応義塾大学教授、ニューベッドフォード捕鯨博物館・学術顧問

1841年12月2日午前9時、ジョン・ハウランド号は錨を上げ、ハロナロを出帆した。もう1シーズン日本漁場を中心に、マッコウクジラを追いかける計画である。万次郎がジョンの名で乗り組んでいた。筆之丞ら4人はハワイに残った。ジョン・ハウランド号は、進路を南にとり、赤道を越え、右舷にスターバック島を見ながら舵を北西に向けた。ジャービス島を過ぎたあたりで新年を迎え、1842年1月の下旬キンシメクロ(キングズミル・グループ)沖に達した。しばらくキンシメクロ近海でマッコウクジラを追いかけたあと、カロリン群島を抜け、グアム島へ辿り着いた。英米の捕鯨船はここを集結地とし、日本漁場でのマッコウクジラの季節に備えるのである。グアムでは、ジョン・ハウランド号の乗組員たちは交代で上陸し、陸上での休暇を楽しんだ。

 

4月21日、ジョン・ハウランド号はアプラ港を出帆、ボニンズ(小笠原諸島)へ向けて舵をとる。5月9日、北緯26度6分東経139度30分のところで、ジョン・ハウランド号は激しい台風に見舞われた。

 

5月27日、ピール島(父島)のポート・ロイド(二見港)で、豚、ヤムイモ、玉葱、鴨などを仕入れた。その後、北に進路をとり6月5日の午前10時、右舷に孀婦岩、左舷に無人島が視界に入ってきた。今シーズンもジョン・ハウランド号は、孀婦岩と無人島を軸にして、東西南北にマッコウクジラを追いかけた。北は須美寿島あたりまで、日本本土からは離れて操業している。ときどき鳥島と孀婦岩が見えかくれする以外は空と海ばかり。

ジョン・ハウランド号が、ニューベッドフォードの港を離れて2年と10カ月、食事はヤムイモ、塩漬けの肉、硬パン、玉葱、それと飲料水は樽に貯めた雨水である。来る日も来る日も鯨を追いかけ、解体し、搾油し、貯蔵するという単調であるばかりでなく、危険にあふれた作業が続く。彼らはこの忌わしい運命を呪った。だれもかれも発狂寸前である。反乱が正に起きようとしていた。当時の捕鯨は危険にあふれていた。未知の海を不完全な海図を頼りに航海しなければならない。たえず嵐に襲われ、岩礁が船を取りまいている。解体作業には、鯨に群がる鮫、危険な足場、油でつるつるになった甲板、打ち振う包丁。搾油作業の最中に炎がとび出し、いつ船火事が起こるかもしれない。しかも最大の危険は、ボートを下ろし、鯨を追いかけている時に始まる。ぞっとするような事故がつきまとう。やるかやられるかだ(A Dead Whale or A Stove Boat)。鯨の巨大な尾のひと打ちで、ボートは木端微塵になる。鯨の中には、敵意を抱いた鯨(ugly whale)さえいる。ボートに襲いかかり、草刈鎌のような巨大な顎でボートなどひと噛みに打ち砕いてしまう。

 

8月23日、2等航海士エドのボートが、木端微塵に打ち砕かれた。9月12日には3等航海士ウォーレンのボートが、巨大な顎で噛み砕かれた。さらに9月16日には、船長のボートを、鯨が真下から襲いかかり打ち砕いてしまった。

 

秋になるとマッコウクジラは、日本漁場を離れて、東南の方向へ移動を始める。ジョン・ハウランド号も9月に入る頃から反転して舳先を東南に向け始めた。いよいよ日本から遠のいていくのである。

 

これより先、天保13年7月24日(西暦1842年8月29日)幕府は、「異国船無二念打払令」を改め「天保の薪水令」を発令した。むろん、万次郎もホイットフィールド船長も知る由もない。ジョン・ハウランド号上は、だれもかれも狂気、不運につきまとわれている(All Hands Mad And Bad Luck Attends)。捕鯨船上のホイットフィールド船長は、あの「万次郎物語」の彼とは別人であった。

 

10月10日、日付変更線を越えた。これでようやくみじめな生活から別れることができる。マストにはだれも立っていない。

 

10月29日、ジョン・ハウランド号は、アトオイ(現カウアイ)島の沖に錨を下ろした。ここで1シーズン契約のカナカ人3名を下ろした。万次郎は船長と共にアメリカへ渡る決意をしている。ジョン・ハウランド号はここで薪水・食糧を補給したあと、南進して赤道を越え、モーレア(アイミオ)島へ入港した。11月29日のことである。

 

これより10日前の11月19日、メルヴィルは、ナンタケットの捕鯨船チャールズ・アンド・ヘンリー号で、アイミオを離れ、ハワイへ向かっていた。ジョン・ハウランド号は帰港(homeway bound)を急ぐ。原乗組員は28名から16名に減っていた。

 

ジョン・ハウランド号は、アイミオ島を出帆したあと西南西へ進路をとる。翌1843年2月13日には無事にホーン岬を回り、こんどは北へ舳先を向けた。その頃、頭上にほうき星が現れた。1843年の大彗星(Great Comet)である。バーミューダ海峡を過ぎ、どんどんニューベッドフォードへ近づいていった。

 

5月4日、捕鯨船の心臓部である鯨油煮沸炉(try works)を海に投げ捨てた。

 

1843年5月8日、ジョン・ハウランド号は、バザーズ湾を遡っていた。後方にゲイ岬の明かりがまたたいていた。こうして3年6カ月と7日にわたる捕鯨の旅は終わった。収穫はマッコウ油の2,761バレルであった。ライマン・ホームズにとっては、長い不愉快な旅であった。