(草の根通信71号、2012年7月掲載)
北代淳二:CIE 評議員、ジョン万次郎研究家、TBSインターナショナル元社長
日本の櫻の木がワシントンへ贈られてから今年で 100 年になります。両国で日米の友好を祝う盛大な記念行事が行われました。一方、ちょうど同じ100 年前に、日米草の根交流の原点を作ったジョン万次郎の異文化体験記『漂巽紀畧 (ひょうそんきりゃく)』が、海を渡って初めてアメリカに伝えられたのですが、このことはよく知られていません。
嘉永 5 年(1852)夏、万次郎、伝蔵、五右衛門の 3人の漂流民は 11 年ぶりに故郷の土佐へ帰って来ました。万次郎らの海外体験の一部始終を、藩命を受けた絵師で学者の河田小龍が聞き取り、4 巻の書にまとめたのがこの『漂巽紀畧』です。「巽(たつみ・南東)の方角に漂流した記録のあらまし」というのが題名の意味です。小龍が絵筆をふるった豊富な挿絵入りのこの手書きの書は、藩主の山内容堂に献じられました。そして翌年のペリーの黒船来航で日本中が騒然となる中で、万次郎の体験を通じてアメリカを初めて伝えたこの書は大変な評判となり、数多くの写本や異本が作られました。
ところがこの書は明治維新後、なぜか姿が見えなくなり、研究者の間で「幻の『漂巽紀畧』」と呼ばれるようになりました。その「幻の書」がアメリカ人の手で偶然見つけられ、再び世に出ることになります。
明治 45 年(大正元年 1812)初夏。東京・両国の古書即売展でスチュワート・キューリンというアメリカ人が、熱心に本をあさっていました。彼は文化人類学者でニューヨーク・ブルックリン博物館の学芸員として資料収集のために来日中でした。ふと手にした古書の一頁に彼の目が吸い寄せられました。「これはニューイングランドではないか!」小舟が行き交う波止場を見下ろすように、時計台のある尖塔が色鮮やかに描かれていました。日本語の読めないキューリンには分かりませんでしたが、この絵には「ボーシトン府馬頭之図」という書き込みがあります。1846 年、万次郎が 2 回目の捕鯨航海に出るときに立ち寄ったボストン埠頭の挿絵でした。
こうして偶然に見つけて購入した『漂巽紀畧』4 巻を、キューリンはニューヨークヘ帰る前に人を介して会った、万次郎の長男東一郎に見せました。驚いた東一郎は、キューリンから 4 巻を借りると、家族知人を動員して 3 日がかりで全部を写し取りました。この写本はいま「中濱本」と呼ばれて中濱家に伝わっています。キューリンと共にアメリカへ渡った『漂巽紀畧』は「キューリン本」と呼ばれます。原本ではなく古写本です。「キューリン本」はその後ブルックリン博物館の所蔵とならず、いくつかの手を経て、1966 年にフィラデルフィアのローゼンバック博物館・図書館のコレクションとなりました。ここはジェイムズ・ジョイスら、すぐれた英米文学者の原稿や初版本などの希少本と、アメリカーナと総称される米国史関連の古文書類を多く集めているのが特色です。
その中に、アメリカの名の由来となったアメリゴ・ヴェスプッチが、1504 年に書いたという『ムンドゥス・ノヴス(新世界)』があります。コロンブスがアメリカをアジアの一部と考えたのと違って、ヴェスプッチは新しい大陸だとしました。ヴェスプッチがアメリカ大陸の存在を初めてヨーロッパに知らせたように、『漂巽紀畧』は万次郎の体験を通じてアメリカを初めて日本に伝えました。ローゼンバック博物館・図書館は『漂巽紀畧』をこのように評価し、そのアメリカーナ・コレクションの重要な一部だと位置づけています。
「キューリン本」が初めて一般公開されたのは、1976 年のアメリカ独立 200 周年のことでした。ワシントンのスミソニアン博物館のナショナル・ポートレート・ギャラリーで開かれた特別展です。独立以来アメリカを訪れた著名な外国人のさまざまなアメリカ観を紹介する企画で、チャールズ・ディッケンズ、アレクシ・ド・トクヴィル、ジャコモ・プッチーニ、H・G・ウエルズら、世界中から選ばれた 33 人と1団体の中に、唯一の日本人としてジョン万次郎がいました。そしてアメリカを初めて日本に伝えた書として、フィラデルフィアから出品された『漂巽紀畧』が、万次郎の肖像と一緒に展示され、観客の注目を集めました。
このほか 1999 年に、ローゼンバック博物館・図書館が独自で「漂流 - ナカハマ・マンジロウの発見の物語」と題する特別展を開きました。そして同じ内容の巡回展が、2003 年にロサンゼルスの全米日系人博物館で開かれ,「キューリン本」が公開されています。注目されるのは、日系アメリカ人の万次郎観です。彼らの多くが、先祖の1世、2世が歩んだ苦難の道を、万次郎の体験にダブらせて見ているようです。
1978 年、米連邦議会は上下両院合同決議で、毎年 5 月第 1 週を「アジア系米人の伝統を守る週間」と定めました。1843 年 5 月 7 日に日本人移民が初めてアメリカに到着し、また1869 年 5 月 10 日に、多くの中国人移民が汗を流した大陸横断鉄道が完成したことが、この週が選ばれた理由とされています。(その後第 1 週から 5 月全体に拡大されました)
1843 年 5 月 7 日は、本当は万次郎がホイットフィールド船長に連れられて、日本人として初めて、アメリカ本土に第一歩を印した日です。この日を日系アメリカ人の歴史が始まる日としたことに、万次郎に寄せる彼らの思いがうかがえます。フィラデルフィアの静かな住宅街にあるローゼンバック博物館・図書館からほど遠からぬところに、インデペンデンス・ホールがあります。1776 年、ワシントンやジェファーソンらが、人間は生まれながらにして平等だと、英植民地からの独立を高らかに宣言した歴史的な場所です。万次郎が自ら体験した若きアメリカの民主主義を、日本へ初めて伝えた『漂巽紀畧』。100 年前に海を渡ってやって来たこの古書のアメリカ永住の地として、フィラデルフィアはまことにふさわしいと言えるでしょう。
(この記事は今年 4 月 2 日から 7 日まで、6 回にわたって高知新聞に連載された「海を渡った『漂巽紀畧』」を短く書き直したものです)