37. 鎖国下、常陸の漁師たちの「国際草の根交流」  by 飯森明子

(草の根通信125号、2025年12月掲載)

飯森明子:津田塾大学言語文化研究所特任研究員

日本で最初の日米交流の記録は、1791年(寛政 3 年)に米国商船が紀伊大島(現在の和歌山県串本町) に来航した出来事です。1854 年の日米和親条約で本格的な外交関係が樹立され、その後は戦争と同盟を 経て現在の幅広い協力関係へと発展しました。公式に記録されていない小さな国際交流は案外身近で 起こっていたのかもしれません。飯森明子氏によって随筆集「甲子夜話」から読み説いていただきました。

 1841年、土佐の少年万次郎は漁猟中の嵐で鳥島まで漂流し、やがて米国の捕鯨船に助けられ米国で教育を受け航海術を学んで幕末に帰国した。以来、本会の「国際草の根交流」活動が始まっていることは言うまでもない。しかし万次郎の漂流に先立つこと18年前、すなわち異国船打ち払い令(1825 年)が幕府から出されるよりも前、現在の茨城県沿岸、鹿島灘で起きた漁師たちと異国の捕鯨船員たちとの「国際草の根交流」をご存知だろうか。ここでは彼らの「未知との遭遇」を紹介してみたい。

 さて、19 世紀に入るころから欧州で進み始めた産業革命に伴い、工場や鉱山で使用する照明用油として鯨油の需要が急速に高まっていた。日本沿岸にも国籍不明の不審船が、英国と米国の捕鯨船、あるいは露船が大半だったらしいが、頻繁に現れるよう

になっていた。とりわけ急増した1820年代、鹿島灘に現れた異国船について、沿岸の番屋などから報告が頻発され、1823年水戸藩の公式記録には次のようなものが残っている。

「五月初旬 久慈水木の漁船洋中にて鯨の殞たるを見るものあり 綱類なと制作此国のものにあらす 一二本を得て郡方に出す二五、六日頃 川尻の漁船も夷船に逢て乗うつり酒果なと得て帰る」

(「続水戸紀年 哀公上」1823)

 

 他にも同船と漁師の動きについて水戸藩の簡単な公式報告はある。だが隠居した平戸藩主松浦清が見聞きし伝え聞いたことを書き残したという『甲子夜話』は、江戸時代後期の日本社会を描いた随筆集として有名だが、その『甲子夜話』にもこの事件についての文がある。水戸藩会瀬浜の網元柴田の関係者たちから聞いた話や水戸藩士会沢正志斉からの書簡も集めたというが、同船と漁師たち港の人々の動きが生き生きと描かれていて、簡素な公式記録より実態を伝えていると考えられる。ただ主人公の漁師の名前さえ、藩の記録「忠二郎」と『甲子夜話』の「忠五郎」では違い、まさに “名前もなき庶民”の国際交流の話なのである。

 以下『甲子夜話』に出てきた話を簡単に、途中ジョン万次郎との接点も考慮して当時の捕鯨について紹介し、近代日本幕開け前

の国際草の根交流についてみてみたい。

 

 異国船は潮境の向こうの沖に毎年初夏から秋頃まで現れ、度々自分たちの船の近くにきては「彼船より相招候ことなど折節は有」った。かといって異国船を見たなどと噂をすれば役人から呼び出され調べられ面倒になるから、漁師たちは一同申し合わせて口外しないようにしていた。1823年はなぜか鰹が例年よりも沖に集まっていたので、鰹漁師たちは異国船が数隻沖合に逗留し鯨を捕っていたのと遭遇した。会瀬浜(現在の日立市)の柴田伝左衛門配下の漁師で「忠五郎」という者がいた。数年来、異国の捕鯨船はよく見てきたし、みんな心配している。そこで忠五郎が船へ行って、船中の様子を見届けたようと申し出た。もし自分が帰って来なかったら、悪い心の者たちの船と心得て、それ以降近づかないようにすれば良く、自分が殺されても犬死にはならないだろうと、考えたのだった。

 忠五郎が異国船の近くにこぎ寄せると、船中より縄ばしごが降りてきて船に登っていったところ、「殊の外慇懃に取扱」われて「頭分の者の部屋え召連、酒食等饗応」され、られたが、言葉が通じないので、何も話にならない。船長室に通されて酒果(おそらく捕鯨船員の必需品ラム酒と保存食糧のビスケット)をふるまわれ、彼らの様子を詳細に見てきたのだった。「ただ忠五郎より手様にて、何国の人と申すこと尋」ねた。帰郷する前に、何度も繰り返された言葉から英国らしいことは聞き取れた。

 

 ところで、忠五郎がみた捕鯨方法はおそらくは万次郎の経験と大きく変わりはないだろう。そこで『甲子夜話』の捕鯨観察部分

に少し焦点を当ててみよう。

 忠五郎が二度目に釣った鰹を持って行ったところ、異国人はこれを見て、手で、鰹は強い毒を持つ魚なので、食べられないという。一方、鯨は大きな「国益」になるものだからこそ、遠い国から日本へはるばる波風を超えてやってきて漁をしているのだ。だが日本人はたくさんの鯨を目の前にしながら見逃しているのは、鯨の捕り方を知らないからに違いない。忠五郎は船中で鯨を捕るところを見ることになり、すぐに3日間この船に逗留して見物した。

 彼らはだいたい鯨 1 頭に三四人懸かりで一日に 8 頭獲っていた。帆柱の上に一人が登って、「千里鏡を以て遠見」し、合図があるとその合図に従って横につけている小船に二人乗り、一人は船を押し、一人はもりを持って、鯨が潮を吹いて浮き上がってくるところへ乗り付けて、「もりを入、合図見合、又浮み上」がったら同じようにする。大抵二~三度位で鯨は弱るので、小舟で元の船に戻って来る。そして船の脇に綱を繫いでおいて、大きな刃物で切り目をつけて、船から轆轤をまわして熊手のような爪付きの綱を下ろして、切り目に押し入れ轆轤で引き上げる。肉を剥ぎ取り、わずかな時間で骨ばかりになり、骨と頭はそのまま海へ投げ捨て、直ちにその肉を大きな蒸留装置にいれ油を絞る。船中に桶樽があって、桶材も木材で持ってきて必要に応じて箍をはめて桶を作る。空の樽を船の隅々に並べ置いて、革製の樋(チューブ)をつなぎ合わせて蒸留装置から樽へ油を流し入れ、樽に満タンする。「チヤン」(チェーンか)で塗封して、続いて次の樽へチューブを移す。同じようなことを続けて行うが、運の力を働かせなければできない仕事である。薪を使って油を絞り、肉のかすを太陽で干して燃料に使うので、船中臭くて耐えがたい。

 

 さらに、異国船は錨も使わずほぼ同じ海上に停泊を続けたり、進路方向を違わず正確に目的地に向かっていたことも小舟の沿岸漁師には驚きであった。忠五郎は航海道具を(おそらく八分儀)見ていたが、その意味や使い方はどうしても理解できなかったようだ。

 こうして、異国船から土産の酒や菓子をもらって港に帰ってきた忠五郎は「船中の様子相話し」て漁師たちに「承伝」えた。以後、異国船がやってくると漁師が次々と異国船へ乗船し、「何れも頭分の部屋え召連、酒食等振舞」われ交流する者が続いた。初めは持っていた煙管(キセル)、タバコ入、鼻紙、 着ていた半纏、木綿、 単衣の類い、など異国人が欲しがるのに任せて彼等が持っていた品物と交換するくらいであった。交易した品物を持ち帰って売り払えば、「存外の価」になったので、やがて少々な品物を仕入れて交易する者も現れた。その内、町人等にも伝わって、半紙、美濃紙、木綿、絹、反物のようなものを漁師に渡して交易しようとする者も出てきて、「水戸領内に目なれざる異国の品大分見当り、役人中も怪」しむ者も出てきた。異国船が近くに現れることもあるので厳しく取り調べをすると、交易のことが露見し、「漁師共三百人余」召捕え、「入牢」「吟味」して「品物一々取り上げ」、当分は出

漁禁止となった。

 捕鯨船上に漂流ではなく自ら進んで乗船し、異国人の様子、捕鯨の方法を見てきたひとりの「名もない」漁師は、間違いなく、手振り身振りだけでこれだけのコミュニケーションをとり、物々交換をなし、好感をもって無事帰郷した。その経験や船の様子を誰にも口外せずにいられるわけはない。だからこそ続々と同様の行動をとる漁師たちが現れ、やがて物々交換が始まり、藩の知るところとなって、「300人」もの人間が取り調べられる事態になった。鎖国中だったから可能だった異文化交流とはいえ、互いに興味深い「未知との遭遇」だったことは間違いないだろう。

 

 しかしながら、漁師たちと為政者水戸藩とで事態の反応に大きな違いがあった。漁師たちは口をそろえて「異国人は至て深切」で、異国人が漁師を優しく扱うのと、 船中の人を扱うのと同様で、すこしも隔てる心がない。漁師たちが沖合で風雨に遭い、困っているときは彼等の船で互いにしのぎ、炎天下のときは水を与え、病気の時には薬を与え力を得ることが多く、我らの力では及ばない鯨を捕るだけで、我らの漁猟の妨げには全くなっていない。なにゆえに公儀は異国人をただ「敵の如く御扱」いになるのかと申す者まで現れる。ただこれには網元もため息を漏らしたという。

 さて、当時の為政者は異国船との接触を直ちに「国防」の危機ととらえた。為政者の水戸藩はこの事件の翌 1824 年に起きた英国捕鯨船員12名の大津浜上陸事件(現在の北茨城市)に過剰なまでの警戒心を示した。一報が入ると直ちに水戸や近郊から350名の兵を送って厳戒態勢をとり、水戸から現地へ急行して調査した会沢正志斎は翌年攘夷思想の「新論」を著した。幕府は薩摩離島でも異国人上陸事件があり、1825年ついに異国船打ち払い令を出した。

 大津浜上陸事件は水戸藩「正史」にも、現代の最新の県史や市史にも詳しく記されている。一方、「忠五郎」ら漁師たち庶民の国際交流は、徳川御三家の水戸藩にとって都合の悪い、「忘却されなければならなかった事件」だった。だが 19 世紀前半の日本沿岸に現れた異国船と沿岸漁師との間に、庶民による国際草の根交流はほかにもあったのかもしれない。

[参考文献:巻之六十[一四]常陸海上異国船新説[文政甲甲]、『甲子夜話 4』東洋文庫 333、平凡社、1978 年、228-231 頁]