(草の根通信1号、2025年3月掲載)
櫻井敬人:NPO法人 中浜万次郎国際協会理事、ニューベッドフォード捕鯨博物館顧問学芸員、太地町歴史資料室
中浜万次郎国際協会理事でありニューベッドフォード捕鯨博物館顧問学芸員でもある櫻井敬人氏が 2025 年 1 月に和歌山大学にて講演された内容の一部を寄稿していただきました。
アメリカの捕鯨船に副船長という役職はない。しかし万次郎はフランクリン号の副船長になったと広く信じられており、それは万次郎の長男である中濱東一郎が以下のように『中濱萬次郎傳』の中で記しているからであろう。
「かくて本船は船長を失ひたれば、乗組員中より新に船長を選ぶことゝなり、投票の結果、萬次郎とエーケン二人が選に當りしも、萬次郎は此時二十二歳なりしかば、衆議によりエーケンを船長とし、萬次郎を副船長として、七月上旬マニラ港を出帆したり。」
アメリカ捕鯨史の泰斗スチュアート・フランク博士は、ジョン・マンは船の「副船長」ではなく、船に積載されていた数隻のボートのうちの一 艘の「ボートスティーラー(Boatsteerer)」に昇進したが、それはボートの責任者に次ぐ地位なので、いわば「サブ・キャプテン(Sub-captain)」ともいえ、それが「副船長」と誤って理解されたのであろうと述べている。フランク博士の主張を解説するのが本稿の目的で、そのためにアメリカの捕鯨船員の報酬と階級について説明する。
🔹捕鯨船員の報酬
海軍や商船と同様に、アメリカ捕鯨船員の階級は制度化されており、それぞれの権限と役割は明確であった。捕鯨船上で船長に次ぐ地位にあるのは一等航海士(1st mate)で、航法を学んだ三等または四等航海士がさらに乗船経験を積み、二等航海士を経てたどりつく職位である。フランクリン号には航海術を身に付けているものがジョン・マンの他に 4 名あると『中濱萬次郎傳』には書かれている。土佐藩による調査報告書というべき『漂客談奇』には「船中に海上測量に達し候者は私共に五人計り有之始終楫をとり申候」とあり、このことを裏付けている。 4 名はすなわち船長と、一等から三等までの3 名の航海士と考えられる。
ジョン・マンがフランクリン号で与えられた職位は、船長を補佐し食料や鯨油などの積荷の管理に責任を持つスチュアードであった。それはシーマン(Seaman 水夫)より上位である。ジョン・マンがジョン・ハウランド号で身につけた経験と、フェアヘイブンの樽屋ならびに海事学校で学んだ知識が評価されているのである。ただしスチュアードは、航海士さらにボートスティーラー(Boatsteerer ボートの舵取り)より下位である。ボートスティーラーに任命されるのは経験を積んだ水夫である。
ボートスティーラーに任命されるのは経験を積んだ水夫である。当時の捕鯨船員の報酬は出来高払いであった。捕鯨成績が良ければ報酬も増えるので船員の労働意欲を高める効果がある一方で、成績が悪ければ報酬は減るので船主や出資者には好都合であった。乗船に先立って船員が署名する契約書には、報酬金額ではなく、「レイ(Lay)」と呼ばれる分数が記されていた。レイとは、船員に分け与えられる報酬総額のうち、各船員が受け取る割合のことである。階級によって取り分に差があり、アイラ・デイビス船長のレイは 1/17 で最も多かった。船員報酬総額の 17分の1を受け取るという意味である。逆に一番少なかったのはボーイ(Boy 雑用係)として乗船したジョン・スノーとジョン・スミスで、彼らのレイは1/180 であった。レイは航海ごと、船員ごとに交渉されるもので割合は変動する。船員は航海中に船上で買った煙草や薬、衣服などの売掛金を下船時に精算しなければならず、往々にして下級船員の手取りはわずかで、ややもすると借金が残った。
🔹捕鯨の人員配置
スチュアードよりも下位で報酬が少なかったのは 2 名のシーマン、2名のオーディナリー(平水夫)、7名のグリーンハンド(Greenhand 新米水夫)、2 名のボーイである。スチュアードよりも上位で報酬が多かったのはクック(Cook 料理人)、3 名のボートスティーラー、クーパー(Cooper 樽職人)、3 名の航海士、そして船長である。捕鯨船の目的はただ一つ、クジラを捕りまくって船倉を鯨油樽で満杯にすることなので、油が漏れない堅牢な樽を作るクーパーの報酬は三等航海士と並んで高かった。そのことを知っていたのでジョン・マンは樽職人
に弟子入りしたのである。彼はクーパーと一緒に鯨油樽の管理を担当したであろうし、樽作りで得た木工の知識は木造帆船上のあらゆる場所で活かされたに違いない。
階級名のうち、ボートスティーラーだけは、捕鯨船上ではなく、捕鯨に積載され捕鯨ボート上での役割が表現されている。クジラが発見されると船からボートが海面に降ろされ、船に残る少数の船員を除いて、ボート一艘につき 6 名が乗り込む。ボートの舵をとるのがボートスティーラーで、経験豊富な水夫が務める。ただし追鯨の段階でボートの舵をとるのはボートヘッダー(Boatheader ボート長)で、船長または航海士の役割である。ボートヘッダーとボートスティーラーを混同してはならない。まずボートスティーラーは船首に座ってオールを漕ぎ、クジラに接近すると銛を手に取る。ボートスティーラーは同時にハプーナー(Harpooner 銛打ち)なのである。
やがてクジラが衰弱すると、船首にいたボートスティーラー / ハプーナーは船尾に向かい舵を取る。(ハプーナーがボートスティーラーと呼ばれる所以である。)船尾にいたボートヘッダーは舵から離れて船首に移動し、ランス(Lance 槍)を繰り返しクジラに突き刺す。この危険な作業は責任者たるボートヘッダーでなければ務まらない。ボートスティーラー / ハプーナーとボートヘッダーは、銛綱を足に絡ませないよう素早く慎重に狭いボート内ですれ違い、位置を変わった。
フランクリン号では、船長を含む 4 名の航海士が、ボート上ではそれぞれ序列 1 位のボートヘッダーとなる。序列 2 位のボートスティーラーも 3 名いた。ジョン・マンは、捕鯨船上ではステュアードだが、ボート上では序列 3 位のシーマンであった。他の 3 名のシーマンのうち、ジョン・ドーレンのレイはジョン・マンと同じ 1/140 で、残りの二人のレイは 1/145であることから、ジョン・マンを含めた 4 名のシーマンのうち、ジョン・マンとドーレンは上級のシーマンとして認められていたことになる。
さてフランクリン号のデイビス船長が発病してマニラで下船すると、一等航海士のエイキンが船長に就任し、以下も順序を追って昇進したはずである。4 名のシーマンのうち、ボートスティーラー/ハプーナーに昇進する資格を有していたのは、同じレイを有するジョン・マンかドーレンのどちらか一人であった。『漂巽紀畧』には、「既に舶頭を托了り舶老エイケン舶頭に代り、舶上を首領し」とあり、エイケンが船長になったことは書かれているが、ジョン・マンの昇進には触れていない。
興味深いのは『難船人歸朝紀事』(高知市立市民図書館蔵)の記述で、「おやち役の者船頭に成り、萬次郎も鯨突になりて六月此處出帆す」とある。「鯨突」は、日本では「はざし(羽差、刃刺)」と呼ばれた銛打ち、つまりアメリカの捕鯨ボートにおけるハプーナー / ボートスティーラーである。
🔹ハプーナー / ボートスティーラーの重責
万次郎は明治 31年(1898)に亡くなるまでに、ついぞ息子に多くを語らなかったという。ただし東一郎は、万次郎が鳥島に近づいた異国人のボートまで泳いだ話や、咸臨丸の運航を任された話などを『中濱萬次郎傳』のなかで紹介し、「著者が實父より聞きし實話なり」などと注釈を書き添えている。副船長になったという話を、父は息子にどう語ったのだろうか。副船長説を裏付ける資料は同書中に記されていない。
引き続き残る謎は、投票が行われたと書かれていることである。当時、捕鯨航海中には頻繁に事故が起こり、嫌気がさした船員の逃亡も珍しくなかった。病気になった船長がマニラにあるアメリカ政府の出先機関に預けられたことからも、残された船員たちが所定の手続きを踏んだことが分かる。アメリカでは国民が大統領を選ぶと知って当時の日本人を驚かせたが、海に出れば自己完結性が求められる船の世界は今も昔も階級社会である。選挙によるジョン・マンの異例の出世を、彼より上位のボートスティーラーと航海士の 6 名が静観しただろうか。契約済みの階級と報酬をご破算にする選挙を、陸で待つ船主が許しただろうか。
フランク博士は以下のようにも述べている。
「船員たちは最も頼りになる人物をボートスティーラーに選ぶ。それがヤンキー捕鯨の真の流儀であった。全船員の暮らしは、その男の技術、勇気、そして確固たる意志にかかっているからだ。彼らが選んだ男こそ万次郎であった。」
ジョン・マンが副船長でなかったとしても万次郎の真価は揺るがない。むしろボートスティーラーつまり銛打ちに選ばれたことを正当に評価することがジョン・マンの理解において重要である。