35.  江戸時大の大名や学者・冒険家にも注目された万次郞  by 岩下哲典

(草の根通信118号、2024年3月掲載)

岩下哲典:東洋大学文学部史学科・大学院文学研究科史学専攻教授、(公財)徳川黎明会徳川林政史研究所特任研究員

今年7月に開催される「日米草の根交流サミット和歌山大会」の分科会のひとつ、串本町は黒船のペリー提督が浦賀にやってくる 62 年も前に、すでに日米の市民交流が行われていたことが記録に残っています。17  世紀より日本が外国に対してその門を固く閉じていた時代に、世界ではどんな出来事が起きていたのでしょうか?その中で、万次郎が漂流の末、日本に世界の情報を持ち帰ったことは、当時の幕府を揺るがし、若者に新しい夢を与えたと言えるでしょう。

歴史博士の岩下哲典氏が中浜万次郎国際協会 1 月例会で講演した「江戸の海外情報ネットワークと万次郎」のダイジェスト版を寄稿してくださいました。

 

『草の根通信』115 号で谷村鯛夢先生がお書きになっているように、朝ドラ「らんまん」で、牧野富太郎博士が万次郎に出会っている場面は、フィクションだ。しかし、さもありなんとも言えなくもない。ただ、われわれ歴史学徒としては、確かな史料的裏付けがほしいところだ。近年、大河や朝ドラでは万次郎は必ず登場する。「西郷どん」でも、劇団ひとりが演じる万次郎が、鹿児島城外の町会所で囚われの身になっていた。さらに NHK の歴史教養番組でも①「その時歴史が動いた」②「歴史秘話ヒストリア」③「偉人たちの健康診断」④「英雄たちの選択」と、必ず万次郎が取り上げられている。その際、中濱家に残る万次郎の史料が重要なエビデンスになっていることは論をまたない。大切な史料だ。

 

私は、それらの番組のいずれにもかかわらせていただき、それぞれ思い出深い。①では、大阪スタジオで松平定知アナと対談させていただいた。一度台本を見ただけで、すべてを完璧に覚えてしまう松平アナのプロとしての仕事ぶりに圧倒された。②の後はどうしてもアメリカ西海岸に行きたくなって、万次郎ツアーを旅行会社(東武トラベル)と共同企画し、現地でルーニーさんに大変お世話になった。③では探検家高橋大輔氏や関根勤氏・島崎和歌子氏とスタジオでトークしたことは、いい思い出だ。④では山本一力先生や磯田道史先生と楽しくトークさせていただき、大いに学ばせていただいた。実際には放映時間の二倍以上は話している。

 

ところで、最近は学校教育の教科書から万次郎の話しが掲載されなくなったようで実に残念である。万次郎は、生命の危険に何度も遭遇しながら、どんな困難にも負けないで、人生をまっとうした実に優れた人物である。もともと優れた資質はあったのだろうが、出身は土佐国の足摺岬の近くの中浜村の庶民である。江戸時代の庶民が、様々なハードルを越えていく中で成長していったところが共感できるし、感情移入もできる。

 

そもそも私が万次郎に深く関わることになったのは、中浜万次郎国際協会が江東ジョン万次郎の会と言っていた草創期に、同会の幅泰治さんからお声がけいただき、何度か会にお邪魔したことからだ。その頃書いたのが、「アメリカより帰国した漂流民中浜万次郎への期待と待遇の変化について : 近世日本社会の異文化受容者への眼差しとホスピタリティ」『Journal of hospitality and tourism 』第1巻第1 号、明海大学、 2005  年だった。幸いなことに、本論文は『土佐史談』の万次郎特集に再録していただいた。論文で明らかにしたのは、万次郎を受け入れたのは伊豆韮山代官江川太郎左衛門や仙台藩儒者大槻磐渓のみならず、なんと、福岡藩主黒田斉溥などは、万次郎に日本の海軍をつくらせたらどうだろうかと老中阿部正弘に提案していたことである。それもペリー来航直前、半年前のことだ。

 

ここで簡単に日米の関係史をおさらいしておこう。 1791 年にレディ・ワシントン号が紀州串本に来航したのが、日米関係の始まりだ。串本にはその記念館がある。私の指導教授でもある片桐一男青山学院大学名誉教授が若いときに初めてアメリカの公文書館まで行って、図面の複写を持ち帰り記念館の模型を作るお手伝いをしたと聞いたことがある。その後、江戸時代の日本人がアメリカを独立国と認識したのは、1809 年。長崎に来航するオランダ傭船がアメリカ船籍だったことへの日本側の疑問からだ。宇田川榕菴「和蘭志略稿本」によると、オランダ商館長は米ドル1ドルコインを示して、アメリカのイギリスからの独立を証明したという。国家の独立は貨幣鋳造権の有無によることを力説し、日本側を納得させたのだ。国家は鋳造権を持っているというのは意外に大事なことだと思う。仮想通貨は国家をあいまいにするものなのだ。はたしていいのか、悪いのか。よくよく考えたほうがいいかもしれない。

 

さて、その後、1839  年にアヘン戦争情報がオランダ商館や中国人からもたらされるなか、わが万次郎は、 1841年に漂流を余儀なくされた。1843 年、オランダ国王は日本に開国を勧告する。さらに 1846 年にはアメリカのビッドル艦隊が浦賀に来航したが、ビッドルは穏便に帰ってくれた。そしていよいよ 1851 年、万次郎が帰国する。琉球・鹿児島・長崎・土佐と 1 年以上かかって故郷中浜村に戻ってきた。

 

翌1852 年、ペリー来航予告情報が、長崎出島のオランダ商館長によって幕府に伝達された。情報の一部は、阿部正弘によって外様大名黒田斉溥にもたらされ、やむにやまれず黒田は対外意見書を提出する。そこに万次郎が「土州漂流人」として登場、海軍創設者として期待されたのである。土佐の魚村の庶民が海軍を創設することを期待されるなど、およそ江戸時代には前代未聞のことであった。それほど万次郎への期待は大きかったということだ。1853 年ペリーが来航し、大統領フィルモアの書簡をもたらして、1 年後に返事を聞きに又来るとして浦賀を出港。その直後に万次郎は阿部正弘から呼び出され江戸に赴く。

 

10 年間海外で生活して帰って来ても、とがめられるどころか、その持つ情報や知識が期待される状況は、山国信州出身の佐久間象山をして、吉田松陰の海外遊学・海外雄飛の壮挙を勇気づけた。万次郎の在り方が、象山や松陰を突き動かしたのである。

 

かくして松陰は、長崎でロシア・プチャーチンの軍艦に乗り込もうとして果たせず、最初の弟子金子重之助とともに下田でペリー艦隊に乗り込もうとして失敗。下田奉行所に自首した。ここから松陰の苦難の道が始まるが、松陰はものともしない。困難に当たってもますます元気に困難に立ち向かう。これもまた、万次郎の生き方、あり方に大いに影響を受けたものではないかと思われる。

 

ともかく、万次郎は困難な状況にある人々に勇気を与えるすごい人なのである。学校教育の各発達段階で、継続的に、ぜひ取り上げていただきたい人物であるし、いろいろな場面でその生き方に触れてほしいとも思っている。

参考文献:

岩下哲典『幕末日本の情報活動』雄山閣、初版 2000 年・増補改訂版 2008 年・普及版 2018 年。

同『予告されたペリー来航と幕末情報戦争』洋泉社、2006 年。

橋本真吾『近世後期日本における対米観の形成と展開』パブファンセルフ、2024 年

 

*注 1:Bjorn.de.sturler, CC BY-SA 4.0, ウィキメディア・コモンズより

*注 2:Csalt39507,  CC0,  ウィキメディア・コモンズより