33.  日本に来航した最初のアメリカ船  by 櫻井敬人

(草の根通信111号、2022年7月掲載)

櫻井敬人: ニューベッドフォード捕鯨博物館顧問学芸員、太地町歴史資料室学芸員

ジョン・ハウランド号の船員が土佐漂流民を烏島から救出する半世紀前の1791年4月末、2隻の異国船が紀伊大島樫野埼(きいおおしまかしのざき)の沖に現れ、大烏と陸緊島(りくけいとう)の潮岬で塞がれた入り江に侵入し、時々位置を変えながら10日間にわたって留まった。この2隻が日本に来航した最初のアメリカ船で、マサチューセッツ州ウェアハム出身のジョン・ケンドリック船長が率いるレイディ・ワシントン号とグレース号であった。1819年に初めてハワイに到達した米国捕鯨船に先駆けて、広東で交易に従事するため、米国東海岸からホーン岬を回って太平洋に出た最初の米国船の一隻がワシントン号であった。

 

串本町は1974年に日米修好記念館を建設し、そこが日米交流の原点であることを発信してきた。日米野球交流史を特集した『草の根通信』前号で紹介された佐山和夫氏が1991年に『わが名はケンドリック』を著すと翌年の県議会で同書が取り上げられた。県教育委員会が2009年3月に出版して県内の全生徒に配った歴史副読本『和歌山発見』には、その史実が以下のように書かれている。

 

「1791(寛政3)年3月26日、アメリカの商船レディ=ワトン号が串本の大島樫野に立ち寄りました。ペリーが日本に来る62年も前です。船長の名はジョン・ケンドリックで、彼は、アメリカの太平洋北西海岸で毛皮貿易を最初に手がけた人として有名です。鎖国中の日本に突然現れた異国の船に対し、村人たちが釣り船に乗って見に行きました。また乗組員たちが村人を船内に招いたり、紙を与えたりするなど、アメリカ人との交流の記録が伝えられています。」

佐山和夫氏の著作
佐山和夫氏の著作

ワシントン号来航から225年が経過した2016年、マサチューセッツ州在住の歴史家スコット・リドレー氏がグレース号の航海日誌を発見した。22歳のサミュエル・デラノ・ジュニアが船上で書き留めたものである。最初の日米交流の様子が記されたー級資料の発見の知らせは、米国船来航225周年記念式典を準備していた串本町長の田嶋勝正氏をはじめ関係者を喜ばせ、米国政府代表として式典に参加することになっていた総領事のアレン・グリーンバーグ氏を驚かせた。以下に航海日誌の抄訳を記す。なお日誌は修復を経てダクスベリー歴史協会のホームページで公開されている。

https:/ / duxburyhistory.org/collection-highIights/logbook-for­ brig-grace-1791/

 

グレース号の航海日記
グレース号の航海日記

入り江を去った2隻は間もなく離れ、再び出会うことも、日本に戻ることもなかった。紀州徳川家の正史には、和歌山から駆け付けたがすでに異国船はいなかったとだけ記された。それから225年後の2016年11月1日、串本町文化センターで「日米修好225周年記念式典」が開催された。振り返れば、それは単なる周年記念事業ではなかったと私は考える。

 

まず半年前の5月27日、現職大統領として初めてオパマ氏が広島を訪問した。そして12月27日には、今度は安倍総理がハワイ真珠湾を訪れた。つまり日米交流225周年記念式典は、日米和解を強く世界に印象付ける一連の歴史的イペントの幕間に実施された、いや、その一幕だったのではないか。グリーンバーグ氏の秘書官に最近会って同意を迫ったが、彼女は人のいい微笑みを口元に浮かぺて軽く頷くのみであった。

「ネイティプJが描いたレイディ・ワシントン号の写生画(神奈川大学日本常民文化研究所写真提供)
「ネイティプJが描いたレイディ・ワシントン号の写生画(神奈川大学日本常民文化研究所写真提供)

しかし私は、キャロライン・ケネディ大使が日米両首脳の広島ならびにハワイ訪問に同行しただけでなく、串本に2分のピデオ・メッセージを送ったことを知っている。彼女は、日米の先人たちによる交流が両者の勇気と先見の明の表れであるとまず断言した。そして225年後の現在、日米同盟がアジア太平洋地域の平和と繁栄の礎であり、その明るい未来は、和歌山と彼女の故郷マサチューセッツ州を含む日米両国の若者たちの肩にかかっていると述ぺ、最後にこう呼びかけた。

「勇気を持って新しいことに挑戦しよう!恐れずにリスクを取りに行こう! 225年前に、私たちの先人がそうしたように。」

 

式典を機にリニューアルされた日米修好記念館には、「ネイティプ」の見張りが描いた、船尾に「星鉢のもん」の旗を掲げたワシントン号のスケッチ(『紀州小山家文書」)も、グレース号航海日誌の詳細も展示されている。ケネディ大使のお墨付きを得たにもかかわらず、日米交流が紀州南端の海辺で始まったことは未だ教科書に載っていない。コロナ禍のせいか、230周年を意識した人は少なかったようだ。ケネディ大使の言葉が、そしてオバマ大統領が真珠湾で述べた以下の言葉が私を励ましてくれるので、私は250周年に向けて作業に戻るとしよう。

「私たちは受け継ぐ歴史を選ぷことはできません。しかし歴史から学ぶべき教訓を選ぶのは、そしてその教訓をもとに将来の進路

を決めるのは、私たち自身なのです。」